いよいよ、この話題を書けるので、オイラはかなり嬉しい!
前のエントリで書いたように、参道南側の「隠れ石」(写真右端)と参道北側の不思議なマウンド状地形(写真左奥)のところから、参道は狭くなり、屈曲し、勾配も急になる。つまり、それまでとは参道の性格が変わるのだ。
それは、なぜか。
伽耶吉利堂跡より上位の空間は「特殊な空間」だからだろう。伽耶吉利堂こそが「本堂」なのであって、現在の小菅神社奥社はあくまで「奥院」だった。つまり、本来は伽耶吉利堂(本堂)より上は、普通の参詣者が気楽に訪れる場ではなく(時代による意識の変遷はあるだろうが)、聖地としてより一層厳しく守られた場所だったのだろう。だから、繰り返し行われたであろう参道の整備にも、そのような意識の差が反映されたのではないだろうか。
そう考えれば、この場所は一つの結界だ。「大門」が置かれたという史料もそのことを補強する。
そして、その場に残る巨礫に託された伝承は、「上杉謙信が石の陰に隠れた」というものだ。謙信は北信濃の各地に伝承を残すが、ほとんど常に「敗勢」「劣勢」「敗走」の物語りだ(たとえば綱切り橋のそれも、逃げる謙信と小菅権現)。
小菅の霊場遺構にとって、奥院入り口にあたる結界で、江戸期に「大門」が再建される場所に「謙信が隠れた」という伝承が残るというのは、どういう意味だろうか。
オイラは、それこそ「小菅山が、武田氏との対決で劣勢に立つ上杉謙信に味方した」という事実を象徴的に伝える物語ではないかと考えている。これはもちろんオイラの考えで、状況証拠はあるものの、直接の証拠はない。でも・・・面白いでしょ? (^。-☆ ♪
んで、この話は、ず~っと引っぱったままになっている「小菅の霊場はいつ変身したのか」と深く関わるから、次はいよいよその話をしよう。
前のエントリで書いたように、参道南側の「隠れ石」(写真右端)と参道北側の不思議なマウンド状地形(写真左奥)のところから、参道は狭くなり、屈曲し、勾配も急になる。つまり、それまでとは参道の性格が変わるのだ。
それは、なぜか。
伽耶吉利堂跡より上位の空間は「特殊な空間」だからだろう。伽耶吉利堂こそが「本堂」なのであって、現在の小菅神社奥社はあくまで「奥院」だった。つまり、本来は伽耶吉利堂(本堂)より上は、普通の参詣者が気楽に訪れる場ではなく(時代による意識の変遷はあるだろうが)、聖地としてより一層厳しく守られた場所だったのだろう。だから、繰り返し行われたであろう参道の整備にも、そのような意識の差が反映されたのではないだろうか。
そう考えれば、この場所は一つの結界だ。「大門」が置かれたという史料もそのことを補強する。
そして、その場に残る巨礫に託された伝承は、「上杉謙信が石の陰に隠れた」というものだ。謙信は北信濃の各地に伝承を残すが、ほとんど常に「敗勢」「劣勢」「敗走」の物語りだ(たとえば綱切り橋のそれも、逃げる謙信と小菅権現)。
小菅の霊場遺構にとって、奥院入り口にあたる結界で、江戸期に「大門」が再建される場所に「謙信が隠れた」という伝承が残るというのは、どういう意味だろうか。
オイラは、それこそ「小菅山が、武田氏との対決で劣勢に立つ上杉謙信に味方した」という事実を象徴的に伝える物語ではないかと考えている。これはもちろんオイラの考えで、状況証拠はあるものの、直接の証拠はない。でも・・・面白いでしょ? (^。-☆ ♪
んで、この話は、ず~っと引っぱったままになっている「小菅の霊場はいつ変身したのか」と深く関わるから、次はいよいよその話をしよう。

