そういえば、このサイトでは「参道南遺構群」が霊場遺跡であることを発掘抜きで断定してるけど、実はいくつかの証拠が江戸時代の古文書に見出されたからなのだ。
昨日、歴史史料に関するちょっとした研究会があって、参加者の発言に「この史料が今日まで残ったのは一つの奇跡」「『残すべき史料』は運命的に『残る』」(小菅とは別の話で)なんて言葉があった。オイラも、歴史学には「運命的な出会い」のようなものがある(たとえばアレとか、コレとか・・・)と感じているので、これらの一見「非科学的」な発言はすんなり納得できた。たぶん「遺跡や史料の潜在的な価値」と「その価値に関心を抱いている人間」が、たまたま接近したときに生じる反応が「運命的出会い」と感じられるのだろう。
そして、こういう「出会い」が起こった現場は、面白い(文化財を守り、生かすという意味で)ことになる。そういう意味では、小菅にはたくさんの出会いがあった。人と史料はもちろん、史料同士や人同士でもそういうことがあったと思う。だから、小菅は面白いんだ。
さて、前置きが長くなったけど、ご紹介した3枚の写真は、いずれも「伽耶吉利堂(かやきりどう)跡」のもので、1枚目は参道脇の標柱付近からのもの。2枚目は参道の少し上方から伽耶吉利堂跡の平場を見下ろして撮ったもの。3枚目は、平場前縁の法面を法裾(法尻)から撮影したものだ。
この現場をみたオイラの結論は、①人為的地形で、台形の平場だけでなく、その下段の曖昧なテラス状地形も遺構の可能性がある。②前縁の法面(勾配がある)と散乱する石は、江戸時代の石垣が破却(もしくは石材除去)された遺構の可能性がある。③伽耶吉利堂直下の「隠れ石」と参道反対側のマウンドは、ゲート(城なら虎口)施設の可能性があるのではないか。 というものだった。
けど、ここに伽耶吉利堂があったというのは伝承だけで、証明が試みられたことはなかった。そこに、宝永6(1709)年の「境内内山新畑見取帳(別箱 10)」が現れたのだ。
内山というのは、大聖院跡くらいから上の、参道両側の谷空間を指す字名だ。その空間が、一度林になってしまった後で、宝永年間までに、これを開墾して「新畑」にしたことがわかった。ということは、山林化する前は、別の「何か」だったのだ。
その「何か」を暗示する小名(こな/字名より細かな地籍名)が、この見取帳にはたくさん書き込まれていた。それらは、「花清水」「かやきり」「常楽堂」「八まんとう」「白山」「日光坊」、そしてなんと「太平なし」まで。これだけでも「内山」にかつて霊場の堂宇があったことが浮かび上がるけれど、検地帳の類は他にもたくさんあるので、いずれ全部まとめて紹介するとして、このエントリでは「かやきり」に集中しよう。
「かやきり」が「伽耶吉利堂跡」の小名であろうことは疑う余地がなく、この小名が「伝承」の元になったのであろう。「見取帳」の「かやきり」には5筆の新畑が書き上げられているが、ホントに興奮しちゃったのは、後の「改め」の際の書き込みだ。 p(゜o゜p) !
そこには、「享保十五より堂所に成」という書き込みが二筆分、「大門に成」という書き込みが二筆分、それぞれある。
別の史料に「観音堂(本堂)」が享保14(1729)年に再興されたことを記すものが古くから知られていたため、「旧観音堂」にあった観音堂が享保年間再建のものだと考えられていた。だけど、この見取り帳によって、「伽耶吉利堂跡」は、かつて伽耶吉利堂(馬頭観音堂=本堂)が置かれたところで、廃絶後に林野になり、宝永6年にあらためて「新畑」として把握され、享保15(1730)年からは再び堂所として扱われることになったことがわかった。
「伽耶吉利堂跡」はただの伝承などではなかったのだ。そんで、オイラが江戸時代の石垣跡じゃないか、と考えたのもどうやら間違いではなかったようだ。延享3(1746)年の絵図に石垣とともに「本地堂(摩多羅神の本地が馬頭観音)」が描かれているのは、再建成った観音堂(本堂)を描いたものだったのだ。だから、旧観音堂への観音堂移築は延享3年より後で、天保7(1836)年の北竜池破堤の絵図に「観音堂」が描かれるまでの90年間のいつかということになる。
もう一つ重要なのは、享保14年に「かやきり」に「大門」が建立されたことだ。何枚かある絵図の中には、この位置に鳥居を描いたものも複数あるので、これも間違いないだろう。その場所は・・・となると、やはりオイラは「隠れ石」を推したい。だって、そうだと面白いんだもの。( ̄▽ ̄)
その理由は次のエントリで。(^。-☆ ♪
昨日、歴史史料に関するちょっとした研究会があって、参加者の発言に「この史料が今日まで残ったのは一つの奇跡」「『残すべき史料』は運命的に『残る』」(小菅とは別の話で)なんて言葉があった。オイラも、歴史学には「運命的な出会い」のようなものがある(たとえばアレとか、コレとか・・・)と感じているので、これらの一見「非科学的」な発言はすんなり納得できた。たぶん「遺跡や史料の潜在的な価値」と「その価値に関心を抱いている人間」が、たまたま接近したときに生じる反応が「運命的出会い」と感じられるのだろう。
そして、こういう「出会い」が起こった現場は、面白い(文化財を守り、生かすという意味で)ことになる。そういう意味では、小菅にはたくさんの出会いがあった。人と史料はもちろん、史料同士や人同士でもそういうことがあったと思う。だから、小菅は面白いんだ。
さて、前置きが長くなったけど、ご紹介した3枚の写真は、いずれも「伽耶吉利堂(かやきりどう)跡」のもので、1枚目は参道脇の標柱付近からのもの。2枚目は参道の少し上方から伽耶吉利堂跡の平場を見下ろして撮ったもの。3枚目は、平場前縁の法面を法裾(法尻)から撮影したものだ。
この現場をみたオイラの結論は、①人為的地形で、台形の平場だけでなく、その下段の曖昧なテラス状地形も遺構の可能性がある。②前縁の法面(勾配がある)と散乱する石は、江戸時代の石垣が破却(もしくは石材除去)された遺構の可能性がある。③伽耶吉利堂直下の「隠れ石」と参道反対側のマウンドは、ゲート(城なら虎口)施設の可能性があるのではないか。 というものだった。
けど、ここに伽耶吉利堂があったというのは伝承だけで、証明が試みられたことはなかった。そこに、宝永6(1709)年の「境内内山新畑見取帳(別箱 10)」が現れたのだ。
内山というのは、大聖院跡くらいから上の、参道両側の谷空間を指す字名だ。その空間が、一度林になってしまった後で、宝永年間までに、これを開墾して「新畑」にしたことがわかった。ということは、山林化する前は、別の「何か」だったのだ。
その「何か」を暗示する小名(こな/字名より細かな地籍名)が、この見取帳にはたくさん書き込まれていた。それらは、「花清水」「かやきり」「常楽堂」「八まんとう」「白山」「日光坊」、そしてなんと「太平なし」まで。これだけでも「内山」にかつて霊場の堂宇があったことが浮かび上がるけれど、検地帳の類は他にもたくさんあるので、いずれ全部まとめて紹介するとして、このエントリでは「かやきり」に集中しよう。
「かやきり」が「伽耶吉利堂跡」の小名であろうことは疑う余地がなく、この小名が「伝承」の元になったのであろう。「見取帳」の「かやきり」には5筆の新畑が書き上げられているが、ホントに興奮しちゃったのは、後の「改め」の際の書き込みだ。 p(゜o゜p) !
そこには、「享保十五より堂所に成」という書き込みが二筆分、「大門に成」という書き込みが二筆分、それぞれある。
別の史料に「観音堂(本堂)」が享保14(1729)年に再興されたことを記すものが古くから知られていたため、「旧観音堂」にあった観音堂が享保年間再建のものだと考えられていた。だけど、この見取り帳によって、「伽耶吉利堂跡」は、かつて伽耶吉利堂(馬頭観音堂=本堂)が置かれたところで、廃絶後に林野になり、宝永6年にあらためて「新畑」として把握され、享保15(1730)年からは再び堂所として扱われることになったことがわかった。
「伽耶吉利堂跡」はただの伝承などではなかったのだ。そんで、オイラが江戸時代の石垣跡じゃないか、と考えたのもどうやら間違いではなかったようだ。延享3(1746)年の絵図に石垣とともに「本地堂(摩多羅神の本地が馬頭観音)」が描かれているのは、再建成った観音堂(本堂)を描いたものだったのだ。だから、旧観音堂への観音堂移築は延享3年より後で、天保7(1836)年の北竜池破堤の絵図に「観音堂」が描かれるまでの90年間のいつかということになる。
もう一つ重要なのは、享保14年に「かやきり」に「大門」が建立されたことだ。何枚かある絵図の中には、この位置に鳥居を描いたものも複数あるので、これも間違いないだろう。その場所は・・・となると、やはりオイラは「隠れ石」を推したい。だって、そうだと面白いんだもの。( ̄▽ ̄)
その理由は次のエントリで。(^。-☆ ♪




